ただの紙きれが、
なぜ世界を動かすのか
これは、お金の増やし方の話ではありません。「お金とは、そもそも何なのか」という、もっと手前の問いを、前提知識ゼロから根っこまで。
財布から1万円札を取り出して、じっと眺めてみてほしい。それはただの紙だ。手のひらサイズの、印刷された紙きれ。なのに、これを出せば食事ができ、服が買え、人は働いてくれる。よく考えると、不思議ではないだろうか。なぜ「ただの紙」が、これほどの力を持つのか。
この記事は、お金の増やし方の話ではない。「お金とは、そもそも何なのか」という、もっと手前の問いを扱う。
日本は長いデフレを抜け、物価が動く時代に入りつつある。「1万円はずっと1万円」という感覚が、通用しなくなりはじめている。だからこそ今、お金の「使い方」ではなく「正体」を、根っこから理解しておきたい。
そして、ひとつだけ先に言っておきたいことがある。お金を扱うのは、冷静な計算機ではない。私たち、生身の人間だ。そのことも、この旅の終わりに効いてくる。
9つの章で、お金の正体に降りていく
順番に読むと、お金の「正体」から「生まれ方」、そして「それを扱う私たち」まで地続きでつながります。気になる章へ飛んでも構いません。
お金に「物々交換の神話」がある
お金が今の姿になるまでに、人類が何をしてきたか。それを知ると、「お金とは何か」の輪郭が、ぐっとはっきりしてくる。
- 「昔はみんな物々交換をしていた」を裏づける証拠は、実はあまり見つかっていない。
- お金の出発点にあったのは「価値あるモノ」ではなく、「貸し借りの記録」だったのかもしれない。
- お金の裏付けは、モノ → 約束 → 何もない、へと、時代とともに「軽く」なってきた。
お金の話を始める前に、まず「お金がなかった時代」のことを考えてみたい。学校で、こんなふうに習った記憶はないだろうか。
「大昔、人々は物々交換をしていた。魚をとる人が、肉を食べたいとする。でも、肉を持っている人が、ちょうど魚を欲しがっているとは限らない。これでは交換が成り立たず、不便でしかたがない。そこで、誰もが欲しがるもの——貝殻や、お米や、金属——を『お金』として使うことを思いついた。こうしてお金が生まれた」
きれいな話だ。筋も通っているように聞こえる。でも、ここで少しだけ意地悪な問いを立ててみたい。この話は、本当にあったことなのだろうか。
「物々交換の不便さ」は、実は確かめられていない
結論から言うと、「昔はみんな物々交換をしていた」という話を裏づける証拠は、実はあまり見つかっていない。教科書にも載っているし、お金の起源としてあまりに有名な話だからだ。けれど、世界中の社会を調べてきた人類学や歴史学の研究では、「お金が生まれる前に、純粋な物々交換だけで回っていた社会」というものが、はっきりとは確認できていない。
では、お金がなかった時代、人々はどうやって暮らしを成り立たせていたのか。有力な見方はこうだ。人々は、その場でモノとモノを交換していたのではなく、「貸し借り」で支え合っていた、というのだ。
たとえば、小さな村を想像してみてほしい。今日、あなたは魚をたくさんとった。隣の家族は、今日は何もとれなかった。あなたは魚を分けてあげる。その場で何かと交換するわけではない。ただ「いつか、そっちに余裕があるとき、何か返してね」という、ゆるやかな約束が残る。
これは、その場限りの交換ではない。「貸し」と「借り」の記録だ。村のみんなが、頭の中に「誰に何をしてあげた」「誰に何をしてもらった」という帳簿を持っていて、それで助け合いが回っていた——そういう社会のほうが、自然だし、実際に各地で見られる。
お金の出発点にあったのは、「価値のあるモノ」ではなく、「貸し借りの記録」だったのかもしれない。
念のため言っておくと、「物々交換から貨幣が生まれた」という説が、まるごと否定されたわけではない。お金の起源には諸説あって、今も議論が続いている。ただ、「物々交換こそがすべての出発点だ」と当然のように考えるのは、いったん保留したほうがいい——というくらいの話だと思ってほしい。
お金の「裏付け」は、だんだん軽くなってきた
物々交換の神話はいったん置いておこう。ここからは、確かに分かっている「お金の形の移り変わり」をたどってみる。すると、ひとつの面白い流れが見えてくる。
最初、お金として使われたのは、それ自体に価値のあるモノだった。貝殻、お米、布、家畜。共通しているのは「それ自体が、何かの役に立つ」という点だ。やがて、金や銀といった金属が使われる。腐らず、小さく分けられ、持ち運べる。でも、金貨をたくさん持ち歩くのは重いし、危ない。そこで、次の工夫が生まれる。「預かり証」だ。
たとえば、17世紀の日本では、伊勢山田の商人たちが「山田羽書「この紙を持ってくれば、銀貨と交換します」という銀の預かり証。紙のお金(紙幣)の始まりのひとつとされる。」という紙を発行していた。同じころ、ヨーロッパでも、金細工師が金の預かり証を発行していた。これらが、紙のお金(紙幣)の始まりとされている。ここで起きたことを、よく見てほしい。人々が手から手へ渡していたのは、もう金や銀そのものではない。「金や銀と交換できる権利」が書かれた紙だ。お金の価値の「中身」が、モノそのものから、「交換できるという約束」へと移った瞬間だ。
その後の流れは、もっとはっきりしている。かつては「紙幣を持っていけば、国が金と交換します」という仕組み(金本位制紙幣の価値を、国が保有する金(ゴールド)で裏付ける制度。今はどの主要国も採用していない。)があった。ところが現代では、その仕組みもなくなっている。今あなたが持っている一万円札を銀行に持っていっても、金と交換してはくれない。つまり、今のお金には、金や銀のような「モノの裏付け」が、もう何もない。
だんだん「軽く」なっていく、という発見
ここまでの流れを、ひとことで整理してみよう。お金の裏付けは、時代とともに、こう変わってきた。
お金は、だんだん「軽く」なってきたのだ。最初は、お金そのものに、ずっしりとした価値があった。それがやがて「約束」になり、ついには「何の裏付けもないもの」になった。ここで、当然の疑問がわいてくるはずだ。裏付けが何もないのなら、今のお金には、いったい何の価値があるのだろう。なぜ私たちは、こんな「軽い」ものを、これほど大事に握りしめているのだろう。
お金の出発点にあったのは、おそらく「価値あるモノ」ではなく「貸し借りの記録」。そしてお金の裏付けは、モノ → 約束 → 何もない、へと、だんだん「軽く」なってきた。
次の章へ → その答えを探す旅へ。「お金の正体とは、本当は何なのか」を見ていこう。
お金の正体は「信用」と「負債」だった
前章の「貸し借りの記録」という見方は、実は今のお金にもそっくり当てはまる。少し驚くかもしれないが——。
- 私たちが「お金」と呼ぶものの正体は、突きつめると「誰かの借金」である。
- 口座の残高は「金庫に積まれた現金」ではなく、銀行があなたに負っている借り。
- 「肩たたき券」が家庭内を回るのと、円が社会を回るのはまったく同じ構造。
私たちが「お金」と呼んでいるものの正体は、突きつめると「誰かの借金」である。
あなたの「残高」は、現金が積まれているわけではない
まず、現実のお金のほとんどが、どんな形をしているかを確認したい。財布の中の紙幣や硬貨を思い浮かべるかもしれないが、世の中を回っているお金の大部分は、紙でも金属でもない。銀行のコンピューターに記録された「数字」——つまり預金だ。給料も、家賃も、買い物も、多くは現金を手渡しせず、口座の数字が動くだけで済んでいる。
では、その「口座の残高」とは、いったい何なのか。ありがちな誤解は、「銀行の金庫のどこかに、自分専用の現金がちゃんと積んである」というイメージだ。でも、そうではない。あなたの口座の残高は、正確に言えば、「銀行が、あなたに対して負っている借り」だ。あなたが銀行に100万円を預けているということは、銀行があなたに「100万円、いつでも返します」と約束している、ということ。つまり、あなたの資産(預金)は、銀行から見れば借金(負債)なのだ。
同じことが、現金にも言える。お札をよく見ると「日本銀行券」と書いてある。これは、日本銀行が発行した、いわば「借用証書」のようなものだ。言いかえれば、お金とは、誰かの「借り」が、人から人へと渡り歩いているものなのだ。
「肩たたき券」を思い出してほしい
「お金は誰かの借金だ」と言われても、すぐにはピンとこないと思う。そこで、子どものころのことを思い出してみてほしい。肩たたき券を、作ったことはないだろうか。「肩たたき1回」と書いた手作りの券を、お母さんやお父さんに渡す。あれを、お金の視点で見ると、なかなか興味深い。
同じ一枚の、表と裏。
ここで、想像を広げてみよう。もしその肩たたき券が、家族の中でこんなふうに信じられたら、どうなるだろう。「この券を出せば、おやつ1個と交換してもらえる」。すると、弟が兄に券を渡しておやつをもらい、兄はその券をまた別の場面で使う……というふうに、券が家族の中をぐるぐる回り始める。その瞬間、肩たたき券は、立派な「家庭内通貨」になる。
考えてみれば、これは今のお金と、まったく同じ構造だ。あなたの作った肩たたき券が家庭内を回るように、国や銀行が発行した「借用証書」が、社会全体をぐるぐる回り続けている。それがお金の正体だ。違うのは、規模と、信じている人の数だけ。家族数人が信じれば家庭内通貨、国民全員が信じれば、それが「円」になる。
「借金」と聞いて、身構えなくていい
ここまで読んで、少しモヤモヤした人もいるかもしれない。「お金が借金だなんて、なんだか怖い」「借金は悪いものなのでは」と。でも、ここで言っている「借金(負債)」は、悪い意味ではない。
肩たたき券は、別に悪いものではないだろう。それは「あとで肩をたたく」という約束であり、約束があるからこそ、券に価値が生まれ、おやつと交換できた。お金も同じで、「借り」と「貸し」の関係があるからこそ、価値が生まれて、社会を回っている。実は、今あなたが持っているお金のほとんどは、過去に誰かが「借金」をしたことで、この世に生まれたものなのだ(その驚きの話は、第4章で)。
お金は最初から、モノというより、人と人との間の「貸し借り」を記録した、軽やかな約束ごとだったのかもしれない。
お金とは、ずっしりした「価値あるモノ」ではない。それは「貸し借り」を記録した、軽やかな約束ごと。第1章で見た「だんだん軽くなっていくお金」の正体は、これだった。
次の章へ → では、その約束を、なぜ見ず知らずの他人まで信じてくれるのか。その核心へ降りていく。
お店の人は、なぜ紙きれを受け取ってくれるのか
子どもがよくやる「なんで?」を、とことん繰り返す。お金を「なんとなく使っているもの」から、「なぜ使えるのかを知っているもの」に変える。
- 「みんなが信じるから価値がある」だけでは、ぐるぐる回って何も説明していない。
- もう一段掘ると、税金という土台にぶつかる。税は円でしか払えない=誰もが円を必要とする。
- さらにその下には、ルールを守らせる国家の力がある。一方で「国に支えられないお金」の系譜(ゴールド・ビットコイン)もある。
レジで財布から千円札を出し、店員さんはそれを当たり前のように受け取って、おつりとパンを渡してくれた。でも、あなたが渡したのは、よく見ればただの紙きれだ。なのに店員さんは、その紙きれと引き換えに、本物のパンを手放してくれた。なぜだろう。
「なんで受け取るの?」を、5回くりかえす
なんで店員さんは、紙きれを受け取るの? ——たぶん、こう答えるはずだ。「だって、このお金を使えば、自分も別のお店で買い物ができるから」。では、もう一段。なんで、その別のお店も受け取ってくれるの? ——「みんなが受け取るから」。
実は、多くのお金の説明は、ここで止まってしまう。「みんなが価値を信じているから、価値がある」と。でも、よく考えると、これは少し変だ。「みんなが信じるから価値がある、価値があるからみんなが信じる」——これでは、ぐるぐる回っているだけで、何も説明していない。ニワトリが先か、卵が先か、と同じだ。だったら、もう一段だけ「なんで?」を続けてみよう。そもそも、なんでみんなは、最初にそれを信じ始めたの?
「税金」という、見えない土台
ひとつの有力な答えが、「税金」だ。あなたが日本で暮らしている限り、税金を払う義務がある。そして、その税金は、日本円でしか払えない。ドルでも、貝殻でも、お米でもダメだ。国が「円で納めなさい」と決めているからだ。
これは、思っている以上に大きな意味を持つ。日本に住むほぼすべての人が、いつか必ず円を用意しなければならない、ということだからだ。こうして、円には絶対的な需要が生まれる。誰もが必要とするから、誰もが受け取る。誰もが受け取るから、お金として回る。さっきの「ぐるぐる」の出発点に、税金という土台があったわけだ。
この考え方は、経済学では古くからある見方の一つで、「お金の価値は、国がそれを税の支払い手段に指定することから生まれる」と説明する。大事なのは、「私たちが円を欲しがる理由をたどっていくと、国家と税金にぶつかる」という発見のほうだ。
想像してみてほしい。ある日、政府がこう発表する。「来年から、税金は円ではなく、指定のどんぐりで納めてください。円は受け付けません」。
さて、何が起きるだろう。人々は税金を払うために、必死にどんぐりを集め始める。会社はどんぐりで給料を払い、お店はどんぐりで商品を売るようになる。その瞬間、あれほど信じられていた一万円札は、ただの紙に戻り、どんぐりが「お金」になる。
——私たちが円を信じているのは、円という紙が特別だからではなく、「国が円を税の支払い手段に指定している」からなのだ、と分かる。
もう一段だけ、降りてみる
さて、せっかくなので、最後の「なんで?」を聞いてみよう。なんで、みんな税金を払うの? ——もちろん、社会のために必要だから、という立派な理由もある。でも、もっと身もふたもないことを言えば、「払わないと困ったことになる」からだ。税金を払わなければ、督促が来て、それでも払わなければ、最終的には財産が差し押さえられる。国には、ルールを守らない人に対して、最後にものを言わせる力がある。
少し堅い言葉で言えば、国家とは「社会の中で、ルールを守らせる力を正当に持っている、ただ一つの存在」だ。(社会学では、これを「暴力の独占「最後にものを言う力を、国だけが正式に持っている」という意味。物騒な言葉だが、警察や徴税の強制力をイメージすればよい。」と呼んだりする。)ふだん何気なく使っているお金は、税金があり、さらにその下に、国家の「ルールを守らせる力」という、硬い土台がある。普段、私たちはこの土台のことなど意識しない。それでも、いちばん底のところで、お金はこの土台にそっと支えられている。
では、「国に支えられないお金」はありえるのか?
ここまで読んで、こんな疑問が浮かんだ人もいるかもしれない。「じゃあ、国家に支えられていないお金は、存在できないの?」 実は、その最も古い答えが、ゴールド(金)だ。
危機のとき、人はしばしばゴールドに逃げる。なぜか。ゴールドは、誰かが勝手に量を増やせない。地球上にある量に限りがあって、恣意的に水増しできない。しかも人類は何千年も、ゴールドを価値あるものとして扱ってきた。その途方もなく長い実績が、「これからも価値を持つだろう」という信頼になっている。そして何より、ゴールドはどこの国のものでもない。だから「国そのものが信用できない」という深刻な危機のとき、国家に縛られないゴールドが選ばれる。つまりゴールドは、「国家に支えられないお金」の大先輩なのだ。
そして近年、このゴールドの役割を、技術で再現しようとして現れたものがある。ビットコインだ。ビットコインには、それを支える国家がない。では、何が価値を支えているのか。ゴールドが「物理的に量が限られている」ことで価値を保つように、ビットコインは「数学のしくみによって発行量に上限がある」ことで希少性をつくる。いわば、ゴールドの希少性と独立性を、数学で再現しようとした「デジタルのゴールド」だ。
もっと詳しく:ビットコインは「国家あってのカウンター」なのか、それとも独立した新しいお金なのか
おもしろいのは、ビットコインに価値が見直される瞬間だ。たとえば、ある国の通貨が暴落して信頼を失ったとき、人々はその国の通貨を見限り、資産の逃げ場としてビットコインに向かうことがある。実際に、過去の通貨危機ではそうした動きが見られた。これは、危機のときにゴールドへ逃げるのと、よく似た動きだ。
ここで、考えるヒントになる視点を一つ。ビットコインが「逃げ場」として価値を持つのは、裏を返せば、逃げ出したくなるような「国家に支えられた通貨の世界」がまずあるから、とも言える。安定した法定通貨という本体があって、その信頼が揺らいだときの受け皿として、ビットコインが意味を持つ——そういう見方だ。だとすれば、ビットコインは法定通貨と対立しているようでいて、実は法定通貨の存在を前提にした「もう一つの選択肢」なのかもしれない。
もっとも、これがすべてではない。ビットコインを支持する人たちは、「国家の支えなど初めから要らない。数学的な希少性と人々の信頼だけで、お金は成り立つ」と主張する。現に、ビットコインを正式なお金として採用した国もある。国家あってのカウンターなのか、それとも国家から独立した新しいお金なのか——その答えは、まだ誰にも分からない。(ビットコインそのものは、別の記事でじっくり掘り下げています。)
5回の「なんで?」で、ここまで降りてきた
⬇ふだん当たり前に使っているお金は、こんなふうに、何層もの「なんで?」の上に成り立っている。
みんなが受け取るから → みんなが信じているから → 税金で必要だから → 国がそう決めているから → 国にはそれを守らせる力があるから。考えなくても、お金はちゃんと使える。それでいい。でも、一度くらいは立ち止まってみる価値はある。
次の章へ → あなたが今日ためらいなく差し出した紙きれは、そもそもどこで生まれたのか。もっと驚く話に進む。
お金は、どこから生まれるのか
この記事でいちばん不思議な問い。世の中のお金は、誰が、どこで作り出したのか。多くの人の答えは、半分だけ正しくて、大事なところが間違っている。
- お金の大部分は「政府がお札を刷る」ことでは生まれない。民間の銀行が生んでいる。
- 銀行が融資する瞬間、口座に数字を打ち込むだけで「無から」お金が生まれる(キーボードマネー)。
- 借金が生まれるとお金が生まれ、返すとお金は消える。世の中のお金は呼吸している。
世の中に出回っているお金は、誰かが、どこかで、作り出したものだ。多くの人は、こう答えるだろう。「政府が、お札を刷っているんでしょう?」 これは、半分だけ正しくて、大事なところが間違っている。実は、世の中のお金の大部分は、お札を刷ることでは生まれていない。もっと意外な場所で、しかも「無から」生まれている。その場所とは——銀行だ。
銀行は、お金を「貸している」のではない
まず、銀行について、ほとんどの人が抱いているイメージを確認しよう。「銀行は、たくさんの人から預金を集める。そして、その集めたお金を、お金を借りたい人や会社に貸し出す。預ける人と借りる人の、橋渡しをしている」——とても自然なイメージだ。でも、現代の銀行のしくみを調べると、これは現実とは違う。これは私の独自説ではない。たとえばイギリスの中央銀行(イングランド銀行)が、公式の解説で、はっきりとこう述べている。「銀行は、預金者から集めたお金を又貸ししている仲介者ではない」と。
では、銀行は何をしているのか。住宅ローンを例にしよう。あなたが銀行で3000万円の住宅ローンを組むとき、銀行員は金庫に走って3000万円の札束を運んでくる——わけではない。やっていることは、もっとあっけない。あなたの口座の残高欄に、「3000万円」と打ち込む。それだけだ。そして、ここが核心だ。その瞬間、この世界に、新しい3000万円が生まれている。どこかから移してきたのではない。文字どおり、無から、3000万円が誕生したのだ。
「キーボードを叩いた瞬間、お金が生まれる」
これは比喩ではなく、現実のしくみの話だ。銀行員が、融資の契約を結び、コンピューターのキーボードを叩いて、あなたの口座に「3000万円」と入力する。その入力が完了した瞬間、世の中に流通するお金は、3000万円ぶん増えている。昔はこれを「万年筆マネー銀行員が万年筆で帳簿に数字を書き込むとお金が生まれた、という意味の古い言い回し。今ならさしずめ「キーボードマネー」。」と呼んだ。今ならさしずめ「キーボードマネー」だろう。
どこかの金庫から移したのではない。無から生まれた。同時に、あなたは「3000万円ぶん返します」という借り(負債)を背負う。借金とお金は、コインの裏表。
「打ち込むだけでお金が増えるなんて、ずるくないか」と思うかもしれない。でも、第2章を思い出してほしい。お金とは、もともと「誰かの借り」だった。あなたが3000万円のローンを組むということは、あなたが「3000万円ぶん返します」という借り(負債)を背負う、ということ。その借りが生まれたからこそ、対になる3000万円のお金(預金)が生まれた。
世の中にあるお金のほとんどは、過去に誰か——会社や、個人や、国——が、借金をしたことで生まれたものだ。
第2章で「借金に身構えなくていい」と言ったのは、このためだ。借金は、ただの悪ではない。借金こそが、社会にお金を生み出している源なのだ。
借りたお金を返すと、お金は「消える」
ここで、もうひとつ面白い事実がある。借金がお金を生むなら、その逆も起きる。ローンを返済すると、そのお金は、社会から消えてなくなるのだ。あなたが住宅ローンを毎月返していくと、生まれた3000万円は、返済のたびに少しずつ消えていく。どこかの金庫に戻るのではなく、生まれたときと同じように、すっと消える。
借りる → 生まれる
誰かが借金をすると、対になるお金が無から吸い込まれるように生まれる。
返す → 消える
借金が返されると、そのお金は吐き出されるように、社会から消えていく。
なんだか、生き物の呼吸のようだ。誰かが借りるたびにお金が生まれ、返すたびに消えていく。世の中のお金の総量は、こうして増えたり減ったりしている。
「では、銀行は無限にお金を作れるのか?」
「打ち込むだけでお金が生まれるなら、銀行は好きなだけお金を作れて、大儲けできるのでは?」 もちろん、そうはいかない。銀行のお金づくりには、ちゃんとブレーキがある。
まず、貸したお金は、返してもらえなければ銀行の損になる。だから、返せそうにない相手には貸せない。次に、銀行には「これ以上は貸しすぎ」という規制(自己資本のルールなど)がかけられていて、無制限には貸せない。さらに、そもそも「お金を借りたい」という人や会社がいなければ、貸しようがない。そして、第3章でちらっと触れた国の役割。中央銀行は、金利を上げ下げすることで、世の中の「借りやすさ」を調整している。最近ニュースで「利上げ」「利下げ」と聞くのは、この、世の中のお金の量を調整するハンドルを回している話なのだ。
「政府がお札を刷る」イメージは、現実のごく一部。世の中のお金の大部分は、銀行が誰かに融資する「キーボードを叩く」瞬間に、無から生まれている。それは、借りた人が「返します」という借りを背負うことと表裏一体。借金が生まれればお金が生まれ、返せば消える。
次の章へ → この知識を持って、いよいよ暮らしに直結する話へ。「インフレ」と「デフレ」だ。
インフレ・デフレの正体
ニュースで毎日のように耳にする、あの言葉。これまでの章を読んできたあなたなら、少し違う角度から、すっきり理解できるはずだ。
- インフレ=モノの値段が上がる、の裏側では「お金の価値が下がる」が起きている。
- お金は、いつも同じ長さの定規ではない。じわじわ伸び縮みする、あてにならない定規。
- 「現金がいちばん安全」は、長いデフレの時代の産物。インフレに傾けば通用しなくなる。
ニュースの説明と、もう一つの見方
ニュースでは、たいていこう説明される。インフレとは、「モノの値段が上がること」。デフレとは、「モノの値段が下がること」。これは間違いではない。でも、お金の正体を考えてきた私たちは、もう一歩進んで、こう言い換えてみたい。
インフレとは「お金の価値が下がること」。デフレとは「お金の価値が上がること」。
同じ現象を、反対側から見ているだけだ。でも、この見方の転換が、これからの時代にものすごく効いてくる。
「伸び縮みする定規」で考える
たとえば、去年100円だったジュースが、今年は160円になっていたとする。ふつう、私たちはこう考える。「ジュースが値上がりした。ジュースの価値が上がったんだ」と。でも、ちょっと立ち止まってほしい。ジュースそのものは、去年と何も変わっていない。同じ味、同じ量、同じ缶。では、何が変わったのか。変わったのは、「お金のほう」だ。去年は100円玉一枚で買えたものが、今年は160円出さないと買えない。つまり、100円玉の「買う力」が、去年より弱くなった。お金の価値が下がったのだ。
ここで、ひとつのイメージを持ってほしい。「お金とは、モノの価値を測る定規だ」という見方だ。長さを測る定規が、いつも同じ長さだと信じているから、私たちは安心してモノを測れる。でも、もしその定規が、こっそり伸びたり縮んだりしていたら、どうだろう。インフレとは、この「定規(お金)」が、じわじわ縮んでいくことだ。定規が縮むから、同じジュースを測っても、去年より多くの目盛り(円)が必要になる。「モノが大きくなった」のではなく、「定規が小さくなった」。これがインフレの正体だ。
体重計に乗って、数字が増えていたとき、「地球の重力が強くなったんだ」と考える人はいない。「自分が太ったんだ」と考える。ところがお金の話になると、私たちはつい、「ジュースの価値が上がった(モノが変わった)」と考えてしまう。本当は、「お金という定規が縮んだ」のかもしれないのに。
モノを疑う前に、測っている定規のほうを疑ってみる。これが、お金を理解する大事なコツだ。
定規(お金)は、どれだけ縮む?
インフレ率を動かすと、去年100円だったジュースが今いくらになり、100円玉の「買う力」がどれだけ縮むかが分かります。
定規(お金)が縮むほど、同じモノを買うのに多くの目盛り(円)が要る。動いているのは、モノではなくお金のほう。
なぜ日本人は「現金がいちばん安全」と感じるのか
ここからが、この章のいちばん大事なところだ。日本は、ここ数十年、長いあいだ「デフレ」の国だった。デフレ、つまり「お金の価値が上がっていく」世界だ。お金の価値が上がっていく世界では、どういう行動が「賢い」だろうか。
考えてみてほしい。お金を使わずに持っているだけで、その価値が勝手に上がっていく。去年100円で買えなかったものが、今年は100円で買えるようになる。だったら、急いで使う必要はない。むしろ、使わずに現金で持っておいたほうが得をする。投資なんてリスクを取らなくても、ただ貯金しておくだけで、実質的に豊かになっていく。つまり、デフレの世界では、「現金を貯め込んで、使わず、投資もしない」ことが、いちばん合理的な選択だった。この感覚は、長いデフレの時代に、日本人の心に深く染みついた。決して、間違った感覚だったわけではない。その時代には、それが正解だったのだ。
でも、時代の風向きが変わったら
問題は、その前提が、ひっくり返ったときだ。もし時代がインフレ——「お金の価値が下がっていく」世界——に変わったら、どうなるか。さっきの「賢い行動」が、まるごと逆になる。現金を持っているだけで、その価値はじわじわ目減りしていく。何もしていないのに、持っているお金の「買う力」が、勝手に弱っていく。つまり、インフレの世界では、「現金をただ持っていること」が、実は静かに損をし続ける行為になる。あれほど安全だと思っていた現金が、縮んでいく定規を、ただ握りしめているだけの状態になってしまう。
これは「だから今すぐ投資しろ」という話ではない。この記事は、お金の増やし方を教えるものではない。ここで伝えたいのは、もっと手前のこと。「現金は、いつでも絶対に安全」という感覚は、特定の時代(デフレ)の中でだけ正しかった、一時的な常識だったかもしれない——。そのことに気づいておくだけで、お金に対する身構え方が、大きく変わってくる。
インフレもデフレも、「モノの値段」が動く話に見えて、裏側では「お金の価値(買う力)」が動いている。お金は、じわじわ伸び縮みする、あてにならない定規。そして「現金がいちばん安全」は、長いデフレの時代の産物だった。
次の章へ → 視野を広げ、国家レベルの大きな話へ。国がお金を発行し、借金して使うのは、良いことか悪いことか。
発行をめぐる大論争 ― 主流派とMMT
国が借金を重ねて支出することは、良いことか、悪いことか。実はこの問いには、まだ答えが出ていない。経済学者が真っ二つに分かれて、いまも議論を続けている。
- 主流派は国を「大きな家計簿」と見て、規律と金利を重んじる。
- MMTは国を「ゲームの運営会社」と見て、インフレ率さえ見ていれば借金を恐れる必要はないと考える。
- どちらが正しいか、決着はついていない。極端な決めつけを鵜呑みにしないのが大事。
この章では、代表的な二つの立場を紹介する。先に断っておくと、私はどちらが正しいとも言わない。両方の言い分を、できるだけ公平に並べる。読んで、どう考えるかは、あなたに委ねたい。
二つの立場を、たとえ話で
主流派経済学
給料(税収)以上に無駄遣い(支出)をして借金を重ねれば、いつか返せなくなって家計は破綻する。だから、収入の範囲で、規律をもってやりくりすべきだ。
——私たちの常識的な感覚に近い見方。
MMT(現代貨幣理論)
運営会社はゲーム内通貨を好きなだけ作れるので「通貨が足りず倒産」は原理的に起きない。ただし配りすぎると物価が暴騰するので、適度に回収(課税)して防ぐ必要がある。
——同じ「国とお金」でも、ずいぶん違う絵が見えてくる。
主流派経済学の言い分
主流派経済学は、長く経済学の中心にある考え方だ。その立場では、国の財政も、基本的には家計と地続きで考える。お金を使うには、その元手(財源)が要る。元手はおもに税収だ。だから、税収という裏づけのない、過度な借金(財政赤字)は危険だと考える。
過度な借金がなぜ危険か。借金が膨らみすぎれば、「この国はちゃんと返せるのか」と疑われ、信用を失う。また、国がたくさんお金を借りようとすると、世の中の金利が上がり、民間の会社がお金を借りにくくなって、経済の活力をそぐ。そして何より、お金を出しすぎれば、前の章で見たインフレ——お金の価値の下落——が、手に負えないほど進むおそれがある。だから主流派は、「経済の調整は、まず中央銀行の金利の上げ下げ(金融政策)でやるべきで、国が借金して支出を増やすこと(財政政策)は、ここぞという場面に限るべきだ」と考える。規律を重んじる、堅実な立場だ。
MMT(現代貨幣理論)の言い分
一方、近年大きな注目を集めたのが、MMT(現代貨幣理論)だ。MMTは、こう主張する。「自国のお金を発行できる国は、家計とはまったく違う存在だ」と。家計は、お金を自分で作れない。でも国は、自国のお金を自分で発行できる。だから、自国のお金で借金している限り、「お金が返せなくて破綻する」ということは、技術的には起こらない——返すお金を、自分で発行できるのだから。
すると、税金の意味も変わってくる。主流派では、税金は「国が使うための元手(財源)」だった。でもMMTでは、国は自分でお金を発行できるのだから、元手として税金を集める必要はない。では税金は何のためにあるのか。MMTはこう答える。税金の役割は、世の中に出回りすぎたお金を回収して、インフレを抑えるためのものだ、と。(第3章で見た「税が通貨の需要を生む」話とも、つながっている。)だからMMTの立場では、国が気にすべきなのは「借金の額」ではなく「インフレ率」だ。インフレが過熱しない範囲でなら、国は借金を恐れず、積極的にお金を使って、人々の暮らしを良くすべきだ——と考える。
どちらにも、相手からの反論がある
さて、ここで終わると、片方だけが正しく聞こえてしまうかもしれない。でも、現実は違う。両者は、互いに鋭く反論し合っている。フェアであるために、その反論も紹介しておきたい。
「インフレが過熱しない範囲なら大丈夫」と言うが、現実にそんなにうまくインフレを制御できるのか。インフレは走り出すと止めにくい。「過熱したら増税で回収」と理屈では言えても、増税は政治的に非常に嫌われる。必要なときに、すばやく増税して支出を止める判断を、現実の政治ができるのか。
「国の借金は将来世代へのツケだ」と心配するが、国の借金は、裏を返せば民間の資産(黒字)でもある。国が使ったお金は、誰かの手元に渡って財産になっている。また、「国の財政は家計と同じ」という前提そのものが、お金を発行できる国には当てはまらない。
ところで――インフレは、一種類ではない
ここまで「インフレを抑える」という話を何度かしてきたが、実は、ここに大事な落とし穴がある。ひとことで「インフレ」と言っても、原因の違う、二つのタイプがあるのだ。そして、タイプが違うと、効く対策もまるで変わる。
「需要が引っ張る」インフレ
みんなが活発にお金を使い、モノが飛ぶように売れて、欲しい人が多すぎて値段が上がる、好景気型。
「供給が削れる」インフレ
人手不足・材料費の高騰・物流の目詰まりなどで、供給が細って値段が上がる。作る力が弱って起きる。
ここが肝心なのだが、主流派が頼みにする「金利の上げ下げ」も、MMTが言う「課税で吸収」も、どちらも基本的には「需要」を冷ます道具だ。だから、需要が過熱して起きたインフレには、よく効く。ところが、供給が削れて起きたインフレに、同じ道具を使うとどうなるか。金利を上げて人々の消費を冷やしても、人手不足や物流の目詰まりという、本当の原因は何も解決しない。むしろ、ただでさえ弱っている経済を、さらに冷やしてしまいかねない。
だから、供給が原因のインフレに対しては、主流派もMMTも、立場を超えて、似たような結論にたどり着く。「金利や課税で需要をいじるだけでは足りない。供給そのものを立て直すしかない」――つまり、人手不足を補い、生産性を高め、目詰まりを解消する、という地道な手当てだ。需要型インフレでは激しく対立する二つの立場が、供給型インフレの前では、意外にも歩み寄る。ここは面白いところだ。
なお、近年の日本のインフレは、この「供給が削れる」タイプの側面が強いと指摘されることが多い。とはいえ、現実のインフレは需要と供給の要因が入り混じって起きるもので、その時々で姿を変える。だからこそ、「インフレ=とにかく金利で抑えるもの」という単純な思い込みは、いったん手放しておきたい。
主流派は国を「家計簿」、MMTは「ゲームの運営会社」と見る。両者は互いにもっともな反論を投げ合い、供給型インフレでは歩み寄る場面もある。この論争に、いまのところ決着はついていない。
大事なのは、「国の借金は絶対悪だ」とか「いくら使っても平気だ」とか、どちらかの極端な決めつけを鵜呑みにしないこと。そして「インフレ」も、需要から来たか供給から来たかで話はまるで変わる。
次の章へ → 視点を変える。そのお金を扱う「私たち人間」は、本当に合理的なのか。
人は、お金を合理的に扱えるのか
仕組みを実際に使うのは、機械ではない。私たち、生身の人間だ。「人間は、いつでも損得を正しく計算して、合理的に行動する」——この前提は、本当に正しいのか。
- 伝統的な経済学は「合理的経済人」(賢くてドライ)を前提にしてきた。
- でも現実の人間は、お金に「色」をつけ(心の会計)、損を得の倍以上こわがる(損失回避)。
- これに対し主流派も「あれは分析のための単純化だ」と切り返す。論争は決着していない。
「合理的な人間」という前提
経済学の教科書には、しばしば「合理的経済人あらゆる選択肢の損得を感情に流されず正確に計算し、つねに得な方を冷静に選ぶ、という想定上の人間像。」という人物が登場する。この人は、とても優秀だ。あらゆる選択肢の損得を、感情に流されず、正確に計算する。そして、お金についても、徹底してドライだ。この人にとって、1万円は、どこまでいっても1万円でしかない。汗水たらして稼いだ1万円も、道で拾った1万円も、ギャンブルで勝った1万円も、まったく同じ1万円。お金に「色」をつけない。
経済学は、この「賢くてドライな人間」を前提にすると、世の中の動きをすっきり数式で説明できた。だから、長くこの前提が使われてきた。問題は——現実の私たちが、まるでこの人物のように振る舞っていない、ということだ。
反論その1:人は、お金に「色」をつける
現実の人間を観察してみると、奇妙なことが分かる。私たちは、同じ金額のお金でも、出どころによって、まったく違う扱いをする。真夏に汗だくでアルバイトをして稼いだ1万円は、使うのがもったいなくて、財布の中で大事にとっておく。ところが、道で拾って交番に届け、自分のものになった1万円は、なぜか「あぶく銭だし、パーッと使っちゃおう」という気になる。
冷静に考えれば、おかしな話だ。スーパーのレジで払うとき、その1万円に「アルバイト代」も「拾ったお金」も書いていない。なのに、私たちの心は、勝手にお金を別々の「箱」に振り分けて、箱ごとに使い方を変えてしまう。これを、行動経済学では「心の会計頭の中に、お金の出どころ別の帳簿がいくつもあって、無意識に使い分けてしまう心のクセ。メンタル・アカウンティング。」と呼ぶ。合理的経済人なら、こんなことは起きないはずだった。でも現実の人間は、しっかり色をつける。
反論その2:人は、「損」を「得」の何倍も嫌う
もう一つ、もっと根深いほころびがある。こんなゲームを提案されたら、あなたは参加するだろうか。
勝てば1万5千円、負けても1万円。平均すれば、参加するたびに得をする計算。合理的経済人なら、迷わず参加するはず。
ところが、現実には、多くの人がこのゲームを断る。「1万円も取られるかもしれないなんて、こわい」と。得する見込みのほうが大きいのに、「失う痛み」のほうが、どうしても勝ってしまう。行動経済学は、これを「損失回避同じ金額でも「得する喜び」より「失う痛み」を2〜2.5倍ほど強く感じる、という人間の傾向。」と呼ぶ。人間は、同じ金額でも、「得する喜び」より「失う痛み」を、2倍から2倍半ほど強く感じるように出来ている、という発見だ。これは、たぶん人類が生き延びるために身につけた本能だ。大昔、得をするチャンスを逃すより、命に関わる損失を避けるほうが、ずっと大事だったのだろう。
デフレと、損失回避の「合わせ技」
ここで、第5章の話を思い出してほしい。日本は長いあいだ、現金を持っているのが合理的な、デフレの国だった。この「現金を好む合理性」と、いま見た「損を異常にこわがる本能(損失回避)」が、合わさるとどうなるか。「投資なんてして、もし元本が1円でも減ったら、こわい。それくらいなら、絶対に減らない銀行預金に置いておきたい」——この感覚が、極端に強くなる。たとえインフレで、その預金の「買う力」が静かに目減りしていくとしても、目に見えて額面が減らない安心のほうを、心が選んでしまう。これは、知識が足りないから起きるのではない。人間の心に組み込まれた、強力なクセなのだ。だからこそ、自分にそういうクセがある、と知っておくことに意味がある。
主流派も、黙ってはいない――フェアな反論
ここまで読むと、「合理的経済人なんて、現実離れした古い前提だ」と感じるかもしれない。ただ、フェアであるために、主流派の側の言い分も聞いておきたい。彼らも、黙って負けを認めているわけではない。
合理的経済人は、現実の人間を写したものではなく、世の中を分析するための「単純化したモデル」にすぎない。物理で「空気抵抗を無視する」のと同じだ。人間が完全に合理的だなんて、誰も本気で信じてはいない。だが、複雑な現実を見通すには、いったん単純な前提を置くことが役に立つ。
行動経済学は、たしかに人間のクセ(バイアス)をたくさん見つけた。立派な成果だ。だが、見つけたクセを並べるだけでは、まだ「理論」とは言えないのではないか。合理的経済人に代わる、世の中全体を見通せる新しい体系を、行動経済学はまだ打ち立てられていないのではないか。
これは、なかなか手強い反論だ。
経済学は長く「人間は合理的だ」と前提してきた。行動経済学は「いや、お金に色をつけ、損を異常にこわがる、不完全な生き物だ」と実証で示す。主流派は「あれは分析のための単純化で、行動経済学もまだ代わりの理論を作れていない」と切り返す。この論争も、決着はついていない。
ただ、一つだけ確かなこと。あなたがお金の判断をするとき、相手は冷静な計算機ではなく、クセだらけの「人間の心」だ。それを知っておくだけで、いざという場面で、自分の判断を一歩引いて眺められる。
次の章へ → いよいよ最後の仕組み。お金と「時間」の、不思議な関係。
お金と「時間」
同じ1万円でも、「いつ」もらうかで価値が変わる。利息も、ローンも、投資も、その裏側にすべて共通して流れている、お金の最も基本的なロジック。
- 今日の1万円は、1年後の1万円より価値が高い。増やせる・目減りしない・確実だから。
- 将来のお金は「価値のタイムマシン」で今に巻き戻して(割り引いて)から比べる。
- 相手が危ない(リスクが高い)ほど割引は大きい——それが「ハイリスク・ハイリターン」の正体。
今日もらう1万円と、1年後にもらう1万円。額面はどちらも1万円。でも、その価値は、実は同じではない。この、ちょっと不思議な感覚を、これから腑に落としていきたい。
なぜ「今の1万円」のほうが、価値が高いのか
「今すぐ1万円もらう」のと、「1年後に1万円もらう」のと、どちらがうれしいだろうか。ほとんどの人が、「今すぐのほうがいい」と答えるはずだ。そして、その直感は、正しい。理由は大きく三つある。
この三つの理由から、「将来のお金は、今のお金より価値が低い」と言える。当たり前のようでいて、これがファイナンスお金の調達・運用・時間価値などを扱う学問・実務の領域。利息・ローン・投資の判断の土台になる。という学問の、いちばんの土台になっている。
「価値のタイムマシン」で考える
では、「1年後の1万円」は、「今のいくら」に当たるのか。難しい数式は使わない。「価値のタイムマシン」をイメージしてほしい。たとえば、世の中の金利が、ぜんぶ1%だとする。今1万円を持っていて、1%で運用すれば、1年後には1万100円になる。逆に言えば、「1年後の1万100円」は、「今の1万円」と同じ価値だ、ということになる。
この関係を使って、将来のお金を「今の価値」に巻き戻してみよう。たとえば、「1年後にもらえる2万300円」があるとする。これを、金利1%のタイムマシンで、今に巻き戻す。やることは、1.01で割るだけだ。2万300円 ÷ 1.01 = 約2万99円。つまり、「1年後の2万300円」は、「今の約2万99円」と同じ価値、ということになる。この「将来のお金を、今の価値に巻き戻したもの」を、少し硬い言葉で「割引現在価値将来の金額を、現在の価値に「割り引いて」直したもの。やっていることは「タイムマシンで今に引き戻す」だけ。」と呼ぶ。
価値のタイムマシン
将来もらえる金額・受け取るまでの年数・割引率(金利やリスクの大きさ)を動かすと、それが「今のいくら」に当たるかが分かります。
額面より 約201円 ぶん小さい。先の未来・高い割引率ほど、今の価値は小さくなる。
「今すぐ2万円もらう」のと「1年後に2万300円もらう」のでは、どちらがお得だろうか。額面だけ見れば、2万300円のほうが多い。でも、タイムマシンで今に巻き戻すと、1年後の2万300円は「今の約2万99円」だった。これなら、今の2万円より、ほんの少しだけ価値が高い。だから「1年後に2万300円」のほうが、わずかにお得、と判断できる。
額面の大小だけでは、本当のお得さは分からない。いったん「今の価値」に揃えて比べる。これが、お金を時間で考えるコツだ。
そして、この巻き戻しは、先になればなるほど効いてくる。2年後なら1.01で2回割る。3年後なら3回。遠い未来のお金ほど、今の価値に直すと、ぐっと小さくなっていく。「遠い先の大金」より「今の手堅いお金」が侮れないのは、このためだ。
リスクが高いほど、「割引」は大きくなる
ここまでは、金利1%という、安全な世界の話だった。でも、現実には、もうひとつ大事な要素がある。リスクだ。さっきの「巻き戻し」で割る数字(さっきは1.01だった)を、専門的には「割引率将来のお金を今に巻き戻すとき割る数字。相手の「危なさ」が大きいほど高くなる。」と呼ぶ。そして、この割引率は、相手の「危なさ」によって変わる。
絶対に返してくれると分かっている親友に貸すなら、そんなに上乗せを求めなくてもいい。割引率は低くて済む。でも、明日にも夜逃げしそうな、あやしい相手に貸すなら、どうだろう。「そんな危ない橋を渡るなら、よっぽど高い利息をつけて返してくれないと、割に合わない」と思うはずだ。つまり、割引率を高く設定する。リスクが高い相手ほど、高い見返り(リターン)を要求する。これは、ごく自然な感覚だ。そして、これこそが、投資の世界でよく言われる、あの言葉の正体だ。
ハイリスク・ハイリターン。危険なものほど大きな見返りが期待でき、裏を返せば、大きな見返りをうたうものほど、危険である。
これは、単なる標語ではない。「危ない相手には、高い割引率を求める」という、お金を時間で考えるロジックから、自然に導かれる原則なのだ。
なお、この「時間とリスク」の考え方を、投資の世界で本格的に展開していくと、「なぜ分散投資が良いのか」「株と債券は何が違うのか」といった話につながっていく。それは、お金そのものの話を少し超えて、資産運用の理論の領域になる。興味があれば、別の記事で掘り下げています。
同じ金額でも「いつ」もらうかで価値が変わる。今のお金のほうが価値が高い。だから将来のお金は「タイムマシン」で今の価値に巻き戻して(割り引いて)から比べる。そして、相手が危ない(リスクが高い)ほど、その割引は大きくなる――これが「ハイリスク・ハイリターン」の正体だった。
次の章へ → いよいよ最終章。これまでの旅を「5つの誤解」のかたちで、ぎゅっと総ざらいしよう。
5つの誤解 ― 旅のおわりに
最初の章で、財布から紙きれを取り出して眺めてほしい、とお願いした。あのとき「ただの紙」にしか見えなかったものが、今、少し違って見えていたら——。最後に、答え合わせをしよう。
- 多くの人が知らず知らず抱いている「お金の誤解」を、5つ挙げる。
- どれも、ごく自然な思い込み。これまでの旅を振り返りながら、一つずつ解いていく。
あなたの一万円札を銀行に持っていっても、金とは換えてくれない。価値を支えているのは、「みんなが受け取ってくれる」という社会全体の信用と、国が「税金はこのお金で払いなさい」と定めている事実。お金の価値は、金属ではなく、人と人の信頼と、国家の仕組みの上に成り立っている。
▸ 第1章・第3章融資をするとき、誰かの預金を移しているのではない。借り手の口座に「数字を打ち込む」、その瞬間に、新しいお金が無から生まれている。世の中のお金のほとんどは、こうして「誰かが借金をしたこと」によって生まれた。借金は、ただの悪ではない。社会にお金を送り出す、源でもあった。
▸ 第4章ジュースが100円から160円になったとき、変わったのはジュースではなく、お金のほう。お金という「定規」が、こっそり縮んでいた。そして、日本人に染みついた「現金がいちばん安全」という感覚は、お金の価値が上がるデフレの時代の産物。時代がインフレに傾けば、現金をただ持っているだけで、その価値は静かに目減りしていく。
▸ 第5章今の100万円のほうが、価値が高い。増やせるし、インフレで目減りしないし、確実にもらえるから。だから将来のお金は「タイムマシン」で今の価値に巻き戻して(割り引いて)考える。そして、危ない相手・不確実な話ほど、その割引は大きくなる——それが「ハイリスク・ハイリターン」の正体。裏を返せば、うまい話で高い見返りをうたうものほど、危ない。
▸ 第8章とても自然な感覚だが、それは冷静な計算の結果というより、人間に組み込まれた本能——「損を、得の倍以上こわがる」という、損失回避のクセによるもの。私たちは、お金を合理的に扱える計算機ではない。お金に色をつけ、損を恐れすぎる、不完全な生き物だ。それは欠点ではなく、ただの事実。大事なのは、自分にそういうクセがある、と知っておくこと。
▸ 第7章この記事は、お金の増やし方を教えるものではない。誤解3や誤解5を読んで、「じゃあ投資しなきゃ」と焦る必要はまったくない。ここで伝えたかったのは、もっと手前のこと——「お金とは何か」を知り、自分の思い込みに気づくこと、ただそれだけだ。何をどうするかは、それを踏まえて、あなた自身がゆっくり決めればいい。
旅のおわりに
お金とは、何だったか。それは、金や銀のような「確かな価値を持つモノ」ではなかった。誰かの「借り」であり、人々の信用であり、国家の仕組みであり、時代とともに価値の伸び縮みする、流動的な約束ごとだった。そして、それを扱う私たちは、合理的な計算機ではなく、クセだらけの人間だった。
——もう一度、財布から、あの紙きれを取り出してみてほしい。それは、やっぱり、ただの紙だ。でも、その一枚の背後に、これだけの仕組みと、歴史と、人の心が折り重なっている。そのことが見えたなら、あなたのお金を見る目は、もう以前とは違っているはずだ。
なぜ私たちは、それを信じて使っているのか。その問いを、ときどき思い出してみてほしい。
立ち止まって考えるその習慣こそが、これからの時代に、お金に振り回されないための、いちばんの土台になるのだから。